最高のセルフコンパッションは「自分を幸福にしてあげる」こと。

自分は自分であり、他人でもある。どちらかと言えば、他人の比重が高い。98%は他人かもしれない。最も身近な他人、自分。なので自分を幸福にしてあげることは、最も人の幸福に貢献するということだ。

世界を救う前に、誰かを幸福にする前に、いちばん身近な他人を、自分を幸福にする必要がある。母は命を授かる。だけどたとえ女でなくとも、鼻でなくとも、誰もが授かっているのは、自分という命だ。自分という器に、自分の命を授かっている。

僕は最近たまに気がついて、「自分」という他人を、幸福にしてあげようということを思い出す。最も愛しい他人、それが自分。

言葉にしてしまえば、甘ったるい自己啓発にも聞こえなくもない。軟弱な絵空事に聞こえなくもない。だけど自分を自分だと誤解したまま、執着や怒りにかき乱されるよりも、ずっとましだ。

自分を他人として扱えないというのは、実は本質から外れている。「自分が自分だけだ」と錯覚することは、脳科学が示す事実にも反している。

マインドフルネスは海に浮かぶ小船みたいだ

海の上でゆらゆらと、優雅に揺れることが出来る。

時にはイカダみたいだ。揺れは激しいけれど、激しい波から救ってくれる。

そして時には木の切れ端だ。溺れながらも、ギリギリ手の端で掴むことが救いになる。

とにかく僕らは海の上にいるのだけど、マインドフルネスは小さな助けになったり、大きな救いになったりする。

船の大きさは時によって違う。どちらにしても助けになることには変わりがない。

マインドフルネスは上達することなんてない。存在もしない。

マインドフルネスは上達する。だけど本当は上達することはない。ただ形を変えながら今に存在するだけだ。だけどそれも嘘だ。マインドフルな今でさえ、実はどこにも存在しない。

たとえマインドフルネズがうまくなっても、たとえ下手なままでも、実は大きな違いはない。マインドフルネスなんていう枠組みも、やがては意味を失って、形が分からなくなり、無と有が混じり合うことになる。

もし最初から何もなかったのならば、今もなにもないし、もし最初から何かがあったのなら、今も同じようにあるもの。時間や形が存在しなくなる瞬間。そこにマインドフルネスは存在するし、本当は存在しない。

マインドフルネスは「天使に出会う瞬間」

みずみずしい林檎を包丁で剥いている時、僕は今に戻ってくる。

カフェで流れる音楽にふと気付いた時、僕は今に戻ってくる。

夜道で車のライトに照らされた時、僕は今に戻ってくる。

今に戻ってくる瞬間は、たくさんある。

それは天使に出会う瞬間だ。

美しくないはずの瞬間を、美しいと思える時。

マインドフルネスが起こっているのだと気付く。

僕らは楽しくないのが楽しいし、幸福じゃないのが幸福で、悲しみだって楽しめる。

言葉で矛盾していることは、だいだいマインドフルネスの本質だ。

だからどんどん矛盾しよう。

マインドフルネスは恋愛に似ている。

臆病すぎるとうまくゆかない。力技でもうまくゆかない。

様々な戦術を駆使して、相手を説得する必要がある。

だけど結局のところ、究極の自然体が、一番相手を引きつける。

瞑想は医療行為に似ている。

医療は患者の回復のために善処する。

だけど時には「何も対処しない」ということが、最大の対処になることもある。

どれだけ良い対処をしても、人の命には終わりがあり、やがては諦めが必要になる。

回復のための医療から、終末医療へと。

だけどそれは全て、無駄なものではない。

「生きる」ことのための尊い行為なのだ。

人混みが疲れる時の対策。

歩きながら、足裏の小さな感覚に意識を向ける。

歩くことは体に任せる。何も考えなくても、自動的に体が歩いて行くのが分かる。

意識が体に関与する度合いをぐっと低くする。

これでかなり消耗を抑えることができる。

難しいと感じるなら、とりあえず足裏の感覚に意識を向けるだけでも良い。

消耗するシチュエーションではなるべく小さくなろう。小さな自体感覚に意識を向けてみよう。

眠い時は抵抗せずに、眠気に身を委ねる瞑想をしてみよう。

心地良い眠気に、全身を委ねる感覚だ。

この意識の持ち方次第で、眠気は敵ではなくて味方になる。

なんと、眠ることさえ瞑想になる。

野球と瞑想の共通点。瞑想にも攻めの強さや、守りの強さというものがある。

攻めは集中したり、人生を謳歌するような瞑想。

守りは疲れた時に回復したり、消耗を抑えるような瞑想。

自分の状態に応じて、攻めと守りを切り替えられるようになると良い。

攻守交代しているのに、バットを振り続ける選手はいない。

賢い瞑想をしよう。